ヨーロッパ便り
19期 関 静夫 |
|
早いもので卒業して42年になります。 在学中は4組で吉田千里先生がご担任でした。 当時はまだ学生服に制帽の時代でしたが制帽がいやで被らずに登校してしょっちゅう校門で風紀担当の先生に捕まったり、柔道の授業はサボって教室で居眠りし、昼になると校庭横のラーメン屋に食事に行ったりと自由気儘に高校時代を過ごしていました。 要は規則に縛られるのはいやだと粋がっていたわけですが、吉田先生がいつも温かい目で見て頂いていたのをよく覚えています。 大学卒業後はお決まりのサラリーマンとなりましたが35歳の時に米国・サンフランシスコに駐在して以来、海外駐在が長くなり現在に至っています。 海外駐在暦を紹介すると次のようになります。 35〜40歳:サンフランシスコ、46〜51歳:ロサンジェルス、56〜60歳:上海、60歳〜現在:アムステルダム。 サラリーマン人生も40年近くなりますが半分は海外駐在となりました。 4組も若いときは仕事や子育てが忙しく、クラス会も数年に一度開いていましたが50歳を過ぎてからは毎年開くようになりました。 しかも、私が出張で帰国するのにあわせて開いてくれるので帰国する楽しみが倍増します。 上海駐在中は吉田先生をはじめ10人以上のクラスメートが上海に来てくれました。 今から5年ほど前の7月で、夏の暑い盛りでした。 当時はオリンピックや万博の前で中国も怖いものなしの急成長の真っ只中で、特に上海の町はいたるところ工事が行われていました。 そんな中、紹興で本場の紹興酒を飲もうということでバスを借り切って、日本語ができる会社の女性社員二人も一緒に誘って紹興までいきました。 紹興は呉越同舟で有名な越の都があったところで今から900年前の南宋に時代にも一時都だったこともあり文化と運河とお酒と料理が有名な観光地です。 古い町並みを散策し、途中臭豆腐を食べたり、紹興酒を飲んだり、すっかり修学旅行気分を満喫しました。 でも、40度近い暑さで吉田先生にはきつかったかなと反省しています。 日本で中国の酒といえば紹興酒ですがこれは上海より南のあまり酒が強くない地方の飲み物で、中国で酒といえば白酒(ばいちゅう)です。 中国で仕事をする場合、この白酒が飲めるかどうかで以降の展開が大きく違います。 白酒はもともと西の貧しい地域で雑穀を主体とした蒸留酒で度数は通常54度で独特な匂いがあります。 まず、お客や政府関係者との宴会ではお粥をさっと胃に入れます。 それから、小さなグラスに満たした白酒で乾杯します。 乾杯とは飲み干すことで残してはいけません。 そのあと、料理を食べながら次々と出席者と乾杯を重ねていきます。 当然、料理はほとんど残ります。 そして、最後のほうになるとワイングラスに半分ほど注ぎ、2・3回乾杯を重ね意識がなくなります。 こうしてやっとあいつは俺の酒を飲んでくれた。 仲間になったといってくれ、翌日以降話がうまく進みます。 簡単に書いていますが死ぬほどの苦しみを味わうこともあり、事実会社の出張者で病院に運ばれたものが3人居ました。 中国では仕事をする上で、中国人との人間関係を作ることが非常に重要で、そのこつがわかれば楽しいところです。 こうして中国生活をエンジョイしていましたが昨年4月に青天の霹靂で欧州駐在となり、オランダに赴任しました。 喧騒あふれる活気ある大都会から欧州の静かな町に来たときには島流しにあったような気分でした。 しかもここでは中国流の人間関係は成立しません。 日本は日本人の同質性が高く、また比較的少人数の人々と長時間付き合いを持つグループコミュニティーであり、高コンテクストな社会です。 一方、オランダは多種多様な民族がおり、多くの異なる人々と、短期間の付き合いを持つグループコミュニティーであり、低コンテクストな社会です 。 “一を聞いて十を知る”ということは欧米ではありえません。 特に、オランダ人は理屈が通らないと納得しないのでコミュニケーションが一番大事です。 そうはいっても、オランダ人は親切で英語もほとんど通じるので何とかやっています。 今年の6月にはクラスの面々十人くらいと大先輩の女性お二人がオランダに来てくれました。 吉田先生がこられなかったのは残念ですが、上海に次いで二回目のクラス会を海外で開きました。 アムステルダムの町を散策し、運河クルーズを楽しみ、カフェでビールを飲んですっかり高校時代に戻ってしまいました。 最後はパリで食事をしてお別れとなりましたが、次回はスペインかどこかでクラス会をと盛り上がっていました。
|
| 一橋高校を卒業して(カンボジアより)
38期 チュ・ダラレ(日本姓 朝倉政子) |
28年前の春、私は一橋高校の生徒となって、あの懐しい校門を潜りました。 その頃の私は、日本に来て5年しか経っておらず、高校生としての学校生活への期待よりも、不安と緊張感で胸がいっぱいでした。 そして、1988年3月の卒業式の日から25年の月日か経ちました。 ここで少し私の生い立ちについてお話しさせていただきます。 私は日本へ帰化をし、朝倉政子という日本名を持つ日本人となりましたが、私の両親はカンボジア人です。 私もカンポジアで生まれ、カンボジアの子どもとして育ちました。 その私が、日本へ来ることになったのは、母国カンボジアの政治と社会状況の変化に原因がありました。 カンボジアは1975年から1979年まで急進的社会主義を標榜するポルポト派によって支配されました。 「全ての国民を階級支配から開放し、国民全てが平等に暮らせる国家をつくる」という理想のもとに行われた政治でしたが、そこでは、無実の人々の拉致と虐殺、強制移住や家族の解体、強制収容所での強制労働、宗教の廃止、教育の禁止などによる想像を絶する悲しみと痛みが人々を支配していたのです。 当時、私は小学校5年生でした。 私の父と一番目の姉一家はポルポト派によって拉致(逮捕)され、二度と会うことはできませんでした。 母と二番目の姉と兄と私の4人はサハコーと呼ばれる農業生産共同体へ送られ、そこで強制労働をさせられました。 子どもたちも、粗末な食事で早朝から夜まで、ただひたすら野良仕事をさせられました。 もちろん勉強をすることも、遊ぶことも許されません。 間もなく、過労と栄養不足で母は、亡くなりました。 家族で生き残ったのは二番目の姉と兄と私だけです。 私たちは、子どもながらにも生き延びることに必死でした。 そしてポルポト政権が崩壊する寸前の1979年のある日、私たち3人はサハコーから脱走する決心をしました。 山の深い森の中を何日もさまよった挙句、私たちは幸運なことにタイ国境に近いUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民キャンプにたどり着き、そこに収容されました。 その後、留学生として日本に滞在していた叔父が、私たちを日本へ呼び寄せてくれました。 私たちは日本政府から政治難民としての認定を受け、入国を認められたのです。 日本での生活は、楽しいこともたくさんありました。 辛いこともありました。 しかしどんな時も私は、「あの強制労働の時代を生き延びてきたのだ。これを乗り越えられないはずがない」と自分自身を奮い立たせることができました。 高校では、家庭の経済的事情からたくさんのアルバイトをしなければなりませんでした。 皿洗い、ウェイトレス、ベビーシッター、洋服の値段付けなどをしながら高校生活を送っていました。 重ねて、私には日本語が未熟であるという問題もありました。 そのような私を、一橋高校の先生方は暖かく導き、励ましてくださいました。 多くの先生方(担任の野村先生、高木先生、家庭科の安部先生)が、教師として一人の生徒に対して果たさなければならない義務をはるかに超えて、私を教え、支えてくださいました。 そしてクラスメートも、いつも私を温かく見守りながら助けてくれました。 私は、この一橋高校で大勢の方たちの愛情に包まれながら高校生活を送ることができたのです。 祖国での悲痛な経験に心も傷ついていた私にとって、一橋高校で皆様から受けた愛情はどんなに素晴らしく、意味深いものであったことでしょうか。 カンボジアで生まれ、日本で育てられた私は、カンボジアが母であり、日本が父であるように思えてなりません。 ですから、私は、カンボジアも日本も同じように愛しているのです。 その日本への愛情の多くの部分が、一橋高校の先生方からの私への慈しみによっていると言っても、決して過言ではないのです。 大学への進学を前に、私は法律を学びたいと思うようになりました。 民主主義の根幹となる法律を学びたいと思ったのです。 それは、両親や姉を含め、多くの人々が理不尽に殺された祖国の歴史が、私をそこへ導いたのかもしれません。 私は、駿河台大学法学部法律学科に入学しました。 大学での4年間、私は必死に勉強しました。 大学に進学したのちも、経済的にはさらに苦しく、奨学金をいただいてはいたものの、アルバイトにも精を出す日々は続きました。 出版社の事務・雑用係、ビルディングの清掃、テレビニュースのための翻訳や法廷での通訳など、いろいろな仕事を経験しました。 幸せなことに、私は大学でも多くの先生方と友人たちに励まされ、助けられながら学生生活を送ることができました。 そして、卒業論文を書き終える頃、私は大学院に進み「アジアの人権保護」についての研究をしたいと思っていました。 そのために慶応大学大学院での研究を希望しましたが、残念ながら不合格となり、私はカリフォルニア州立大学大学院に進学しようと渡米しました。 アメリカでの生活が1年ほど経った頃、私の祖国カンポジアは長い内戦の時代を終え、平和の訪れと復興の時代を迎えつつありました。 カンボジアは、世界各国からの支援を受けて国の再建を始めました。 1992年には、それまで停止されていた日本とカンボジア間の二国間援助が再開されました。 その年の暮れ、日本・カンボジア友好橋の修復プロジェクトのため通訳業務に就くことになり、私は祖国へ戻ることになりました。 13年ぶりの帰国でした。 NHKの番組『プロジェクトX 挑戦者たち 思いは国境を越えた──戦場にかけろ日本橋』に取り上げられたのは、この橋のことです。 そのとき以来、私は通訳・プロジェクトコーディネーターとして、日本とカンボジアの二国間援助計画やカンボジア国家開発計画に携わりながら、カンボジアでの生活を送っています。 現在は、カンボジア王国フンセン首相の日本担当秘書官・日本語通訳の務めを果たすとともに、アルファ・インターナショナル・コンサルティング社の代表取締役として国内・海外の企業に対するビジネスコンサルティングを行っています。 今日、『国際』『国際的』という言葉を目にしない日はありません。 そして、私もいま、国と国を繋ぐ仕事をしています。 また、国を超えて協力しあう必要のある現場で毎日を過ごしています。 そのような日々の中で、私はいつも一橋高校のことを思い出すのです。 先生方やクラスメートに暖かく受け入れられていたあの頃、先生やクラスメートからの慈しみに満ちた私の高校生活を思い出すのです。 私は、一橋高校の教室で『国際的』とは、どのようなことであるのかを学びました。 それは、愛情と誠実と友情を土台とするものだということを、私は一橋高校の教室で学んだのです。 一橋高校は、これからも、たくさんの若い方たちを世界へ送り出していかれることでしょう。 カンボジアの地から、そのすべての方々の上に、豊かなお恵みがありますよう心からお祈りいたしております。
|